意志 [小説]
「夫と別れたいんです」
彼女がわたしのオフィスを訪れたのは、一昨日のこと。
わたしは便宜上、彼の前では離婚調停が専門の弁護士と名乗っていた。
「まだ分からないの?」
「ああ、分からないね」
わたしがいるのも忘れたように、言い争う二人。
そんな喧騒をよそに、わたしは自分の仕事をするべく、二人の指から伸びた赤い糸を確認する。
彼の方はまだ小指でしっかりと結ばれていたが、彼女の方はというと完全にほどけかけていた。
これでは確かに、彼女の気持ちが冷めているのも仕方ない。
「あなたとは一緒にいたくないの」
彼女は冷たく言い放つと、わたしの方をちらりと見た。
それを最終確認と判断したわたしは、スーツの内側に手を入れると胸の内ポケットから華美な装飾の施された銀色のハサミを取り出した。
すっと手を伸ばし、二人の間にある赤い糸を切る。
何の抵抗もなく、赤い糸は切れてしまった。
「ああ、わかったよ。お前とはもう終わりだ!」
とたんに夫は態度を急変させ、吐き捨てるように言う。
彼はテーブルに置かれた離婚届へ乱暴に署名と捺印をすると、こんな場所には一秒でも居たくないとばかりにオフィスを出て行った。
その背中を驚いたように見送る彼女。
ハサミが見えていない彼女には、わたしが何をしたのか分からないのだから当然だろう。
しかし、すぐに笑顔に変わる。
何が起こったかというより、別れられたという事実の方が彼女にとっては重要なのだ。
「ありがとうございました」
「これがわたしの仕事ですから」
そう、わたしの仕事はただ二人を別れさせるだけのこと。
このハサミを使って。
最後の。。。 [小説]
俺は死ぬときに
「やり残したことなんてないし悔いはないっ」
なんて言いたくないんだ。
だってちっぽけだろ?
お前のやるべきことってそんなに少なかったのか? って思うだろ?
俺ならこう叫ぶつもりさ。
「ああ! 俺の人生はやり残したことだらけだった」
あいつは夢と希望に満ち溢れたまま逝った。
死ぬ寸前まで前向きな男だったよ。
そう言ってもらえたら本望なんだよっ。
「なるほど。で、どうしたいんだ?」
「と、とりあえず。。もう少し生きたいですっ!」
「言いたいことはそれだけか?」
後ろを向いて駆け出した男の背中に向け、拳銃が火を吹いた。
バー [小説]
BAR 「LOST」
すすけた金色のプレートにそう書かれている。
覗くだけでも覗いてみるか。
ぐっと息を吸い、思い切ってノックをしてみた。
すると、黒いベストを着たバーテンがすっと歩み寄ってきた。
「どなたか、会員様からのご紹介でしょうか?」
「いえ、ちょっと外からこちらの窓を見て、気になったもので」
「基本的に、一見で新規のお客様はお断りしておりますが」
男は私の風体をチラリと見て続けた。
「お客様が、私どもの条件に該当されるようでしたら、
特別に入店していただいても構いません」
「じょ、条件と言いますと?」
「当店では“何かを失われた方”のみ入店して頂いております」
男は小声になり私の耳元で説明を続けた。
「あちらのカウンター1番奥の男性は、
長年連れ添われた奥様を亡くされました。
真中のご夫婦は、可愛がっていた愛犬を亡くされたそうです。
手前の男性は、交通事故で片足を」
私は突拍子も無い話を聞かされ、
思わず言葉を失った。
「条件を満たされたようですね。どうぞこちらへ」
男は呆然とする私の背中にそっと手を添え、
カウンターの空いている席へと案内した。
親父 [小説]
「おやじ、飲みすぎだよ」
「飲みすぎてなんてないぞ。せがれよ、こっちにきなさい。
いいか? せがれよ。人生ってのはな、長ぁーい道のりを、クルマで走るようなもんだ」
「ええ? なんのはなし?」
「人生という道のりを走るクルマのパーツはな、いわば家族であり、友達であり、はたまた恋や、努力、勇気であったりするわけだ」
「おやじ、酔ってるよ」
「いいか? 例えば家族はタイヤ、いやエンジンかな?
恋はアクセル、友達は、ハンドルってとこか。
ま、人それぞれだが、要するに、どれが欠けても、うまく走ることができない。
つまり、それらのもんを大事にして生きていきなさいって、父ちゃんは言ってるんだよ! うぃ~、ひっく!」
「わかったよぉ、じゃあさ、おやじにとって
一番大事な部品はなんなの?」
「ん? そりゃーお前……
ガソリンだろ。うぃ~ひっく!」
ベイビーベイビー [小説]
それは3年前のこと。
やっと慣れ始めた仕事からの帰り道、道端の毛布に包まれたそれを見つけた。
不思議に思って中を覗いてみると、赤ん坊がすやすやと眠っているじゃないか。
慌てて拾い上げると、すぐさま交番へと駆け込んだ。
「す、すいません!」
中では年配の警官が一人、椅子に座っていた。
慌てながら事情を話す私とは対照的に、彼はいたって落ち着き払っていた。
「では、この書類を書いて下さい」
渡された紙には、なぜか『拾得物』の文字が。
戸惑いを覚えながらも、そういうものなんだと素直に従って書いていると、若い女性が交番に飛び込んできた。
「赤ん坊がいなくなったんです!」
興奮した様子で話し始める彼女。
まとまりに欠ける話だったが、その内容からするとどうやらこの赤ん坊の母親らしい。
無事見つかったこともあって、私はほっと胸をなでおろした。
これで安心して家に帰れる、そう思っていたのだが……
「届けてくれた彼に、謝礼として1割をあげないといけませんよ」
いきなり、年配の警官がそんな事を言い出す。
言われて彼女も、私の手をぎゅっと握ったかと思うと懇願するような目で見つめてきた。
「1割といわず、5割もらってもらえますか?」
「え、ああ……」
勢いに押されたこともあり、思わずあいまいに返事をしてしまう。
それがすべての始まりだった。
「じゃあ、こっちの書類も書いてもらわないと」
年配の警官が、ごぞごそと引き出しから2枚の紙を取り出す。
今度は養子縁組の書類と婚姻届を手渡された。
勢いに押され、言われるままに書類の空欄を埋めていく。
こうして私は一児の父親になっていた。
そして3年が過ぎ、隣では寝息を立てながら、すやすやと息子が眠っていた。
その横では、今日も育児に疲れたのだろう。
妻もぐっすりと眠っていた。
二人の寝顔を眺めていた私の頬が自然と緩む。
運命とは奇なものだ。
ドンキ [小説]
男は腰にぶら下げていた鍵束を外すと、陳列ケースの下段からクリスタルの灰皿を取り出した。
「これなんかどう?」
男は床に片膝をついたまま上目使いで彼女に灰皿を差し出す。
夫のシャツに嗅いだことのない香水の匂いがついていた。
いまいましい。
彼女はシワだらけのシャツを丸めて洗濯機の中に放り込んだ。
いったい何度目の浮気だろう?
惨めな自分の半生を振り返るたび、つめたい怒りが彼女の胸の内側をひたひたと満たしてゆく。
翌日、彼女は入念に変装をして、ビックリ鈍器を訪れた。
人目をうかがいながら自動ドアを抜ける。
店内はいやに薄暗かった。
さいわい店内には彼女の他に客はいなかった。
店の奥のカウンターの中でスポーツ新聞を開いていた店員がちらりと顔を上げる。
彼女は男と目を合わせぬように気をつけながら、鈍器を物色しはじめた。
「奥さん」
突然声をかけられた。
いつの間にか彼女の背後に店員の男が立っていた。
「殺しは初めて?」
彼女は黙って頷いた。
「旦那さんかい?」
彼
女はふたたび頷く。
男はため息をついた。
「最近そういう人多いのよ。嫌な時代だねぇ」
男はまるで人ごとのように肩をすくめた。
人殺し用の凶器を売って儲けているくせになんだと彼女は思ったが、もちろん声には出さない。
男の分厚い手の中で、華麗にカットされたクリスタルが照明を浴び、ぎらりと鈍く光った。
「女性の手でも握りやすいし、重さもちょうどいい。こいつでこめかみをガツンとやりゃあ一発だよ」
その日の夜
彼女は手渡されたそれを夫のこめかみに全力で振り下ろした。
授業参観 [小説]
「1番!」
「はい」
「2番!」
「はい」
「3番!」
「はい」
「4番!」
「はい」
「5番!」
「はい」
「ちょっと、あれどういうこと?
せっかく授業参観に来てみたのに、子供を番号なんかで呼んで。
これじゃあ、まるで刑務所じゃない」
「しょうがないわ。先生も名前が読めないのよ」
セツナ [小説]
「ビール冷えてる?お、入ってる入ってる」
「グラス忘れてない?グラスが冷えてなきゃ台無しなんだよなー」
「よいしょっと」
トクトクトクトク
グビッ。。
ぷはぁー
「ん、どうした。。お前?今日はやけに静かじゃないか」
「俺か? そうなんだよ、今日も大変だったんだぜ」
「まったく毎日毎日参るよ。。」
「ん、どうした? そんなに冷たい頬をして」
私は写真立ての中で微笑む妻の頬に、そっと手を触れた。
冷えたガラスの感触が、指先を通して心に突き刺さる。
私の言葉に優しく相槌を打ってくれた妻はもういない。
今日も散らかったダイニングに響くのは、ただ私の独り言のみだった。
メリーメリー [小説]
「ねぇねぇ、起きてよ」
「ねぇ?ちょっと、なんだか揺れてない?」
「なにー、うわっ! おいっ、地震だっ」
ん?
待てよ。
今日は二十四日じゃないか。
「なんだよ、寝る」
「ちょっと!逃げなきゃ!」
「あーそっか、お前知らなかったな。そこの窓、開けてみ」
彼女は首を傾げ、下着姿のままベッドから抜け出した。
細い腕が、カーテンをかき分け、模様の入った曇りガラスをガタガタと開けた。
途端。
赤や青の下世話なネオンの光が部屋の中にこぼれる。
「何これ? ラブホテル?」
「そ。クリスマスイブやらバレンタインデーやら。イベントの日は揺れがすげーんだよ」
「まっ、築50年のボロマンションだからなー」
彼女は冗談でしょ?と言わんばかりの表情だが、
こいつはマジなのだ。
えっ その後どうしたかって?
当然
あとは揺れに身をまかせたさ。
不確かな陰謀 [小説]
朝の満員電車に揺られる僕がいた。
いつもと変わらぬ光景と、いつもと変わらぬ時間。
しばらくぼんやりしていると。
隣に立っているサラリーマン風の中年男性たちの話し声が聞こえてきた。
「例の件、知ってるか?」
「ああ」
眼鏡をかけた男が、こくりと頷いた。
「また失敗したらしいな」
「それにしても、これで何度目だ?」
僕は、気付かれないように耳をそばだてた。
「もしマスコミにでも嗅ぎつかれたら、それこそ社会的な問題になるんじゃないのか?」
「いや、情報管理は完璧だから大丈夫だろう」
「しかしウィルスが漏れ出した件は?施設の外で変異体が発見されたという噂も聞いたが……」
もしかしたら、とんでもない会話を耳にしているのでは?
そんな疑念が湧いてくる。
「ウィルスが漏れても、マスコミに漏れなけれりゃいいってことか?」
「そう理解した方がいいな」
そこで二人は軽く笑い合う。
冴えない中年サラリーマンたちが、あたかもくだらない下ネタで談笑しているかのように。
はっきりした意識の中、それでも夢を見ているかのような不思議な感覚。
今朝も僕は、満員電車に揺られていた。